境内探訪
本堂

天正9年(1581年)に創建されました。

庫裏

庫裏とは、仏教寺院の伽藍(寺院の建物)のひとつです。

住持の居室と客殿を兼ねた方丈と、政所、食堂、厨房、従僧居室等が組み合わされて主体となります。

参道

参道とは、寺院に参詣するための道のことです。

全景

当寺は、雄大な自然に囲まれています。

緑豊かな場所での、静かなひと時をお過ごしいただけます。

月桂院は、岐阜県揖斐郡揖斐川町長良の地にあります。

美濃の三人衆と言われた武将稲葉良通が、天正七年冬、子貞通に政事を任せ、 自分は予め築城した清水城に隠退しました。

妻の芳子は、城の北500メートル程にある良良山の山鹿に邸宅を構え住んでいたましたが、天正9年9月19日(1581)死去しました。

法名は弘徳院殿月桂周芳大姉、天正10年(1582)の春、亡き妻の旧宅を寺として、法名を取って少林山月桂院としました。

そして南化和尚の法弟湖南宗岳和尚を開山始祖としました。

天正16年1月19日(1588)に稲葉良適(一鉄)が清水城で死去したので、妻の墓の横に並べて葬り、月桂院を夫妻の菩提寺としました。

一鉄の没後、良男兵庫頭重通は、秀吉の命によって清水城主となり一万五千石を賜りました。

続いて重通の次男、甲斐守通重は父の後をついて清水城主となった りました。

しかし清水城主通重は慶長12年12月26日(1607)、津田長門守ら敷人と京都の祇園に遊び、酒狂の上狼籍があったという理由で元和4年6月(1620)に改易となりました。

清水の稲葉家は一鉄が清水城に入城後約40年で断絶し、以後、寺は荒廃していきました。

天和元年(1681)清水の郷民が再興を計りました。

しかしこの頃彦根城主伊井家が、昔一鉄に恩を受けていたことを感じ、伊井家の家中より大和国の禅源寺中興四世住職で高僧の誉れも高い月渚葉舟和尚に命じて月桂院の再興を図りました。

月渚葉舟は曹洞宗とし、再興開山として興し、月桂庵と称しました。

後、文政10年10月(1827)4世庵住豊通が臼杵の稲葉家に請い、且つ寺社奉行の允許を得て清光山月桂院に復しました。

一鉄の死後、嫡子貞通が大垣市曽根の本城曽根城から、郡上郡八幡城に転封された後、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の折には、最初西軍に荷担していたので、戦後は九州臼杵城に転封されました。

月渚葉舟和尚は、彦根藩主伊井家の家臣の出であり、幼少から出家し、名僧め誉れも高く、大和国の禅源寺中興四世住職でしたが、彦根藩主の命によって、延宝七年(1679)禅源寺を辞して遠く美濃国の稲葉家の菩提寺月桂院の再興命ぜられて来ました。

以後35年在住し、正徳3年(1713)85歳で入滅しました。

一在住で、寺の本尊地蔵菩蔵、基地に六地蔵背餞、石仏、門前に禁砕石 (結界右)、涅槃軸、一鉄の肖像画、一鋏の古文書等を多く整備しました。